名古屋高等裁判所 平成7年(う)127号 判決
所論は,被告人が,平成5年11月3日に発症した脳内出血の後遺症により右不全片麻痺,失語症,知能低下等の症状に陥り,同7年3月29日当時訴訟能力を喪失しており,原審鑑定によっても判決を理解させるためには専門家の協力を得て判決を宣告する必要があると指摘しているのに,原審は,同日第25回公判期日を開廷し,裁判長は,被告人に形式的に意見陳述を求めたのみで結審し,直ちに原判決書を朗読して有罪判決を宣告したから,原審の同期日の訴訟手続には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反がある,というのである。
そこで,記録を調査し,当審における事実調べの結果を加えて検討すると,被告人は,同7年3月29日の第25回公判期日当時,脳内出血の後遺症による失語症等のため訴訟能力について重大な疑問があり,少なくとも有罪判決を宣告するためにはいんあ者と同様に専門家の協力の下に主文及び理由の要旨を告知する必要があるのに,原審裁判長は,公訴事実を全面的に争ってきた被告人に対し原判決書(全文23頁,理由の主要部分18頁)を通常どおり朗読して判決を宣告したにとどまるから,その判決宣告手続には判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反がある。
すなわち,関係証拠によれば,(中略)本件は平成5年11月5日に判決宣告期日が指定されたが,被告人は,その2日前に脳内出血を起こして入院したため,同期日は延期された。原審は,「被告人の現在の訴訟能力と今後の見通し」につき鑑定人による鑑定をした。その結果は,被告人は,同年10月終わりまでは訴訟能力に問題はなかったが,同年11月3日脳内出血で倒れた後,脳血腫除去手術を受け,その後退院したものの脳実質の破壊病変が残存し,重度の右片麻痺,右体性感覚鈍麻が認められ,視力障害が残り,聴覚障害は特に認められないが,発語量は少なく,極めて小声となるなどの身体機能の障害が残り,知能指数も検査成績上60ないし70程度に低下し,言語理解,言語表出,計算等の障害は失語症の中等度で,書字の障害は重篤であり,文の聴覚的理解も不完全で,短い物語の記憶にも誤りがみられる。失読,失算及び重篤な失書があり,新しい記憶を獲得する学習能力,思考推理などの知能,意欲,注意,精神活動テンポ,精神作業持続性などに若干の障害(非特異的脳器質性精神症状群)がある。
結論として,訴訟能力が完全に失われた状態ではなく,言語的伝達手段の障害を受け,法廷で判決の宣告を受けても即座に理解することは困難であり,精神医学と神経心理学の領域で適切な知識と経験のある専門家の助言ないし介入によって適切な伝達方法を用いるのであれば,判決内容を理解する能力は完全とまではいかなくてもかなり良好なものになる可能性が高いというものであった。
原審は,同7年3月29日第25回公判期日において被告人の最終陳述を求めたが,被告人は無言で手を横に何回か振るだけであったため,裁判長は,付き添ってきた被告人の妻を入廷させ,最後に言いたいことがあるか,現在も無罪という気持ちに変わりはないかとの問いを妻に説明させ,被告人の答えを求めたが,妻の話では被告人の仕種では何か言いたいことがあるようだが,何を言っているか分からないとのことであった。裁判長は,直ちに判決の争点に対する判断部分の写しを弁護人に交付した上,判決書を通常どおり朗読する方法で有罪判決を宣告した。
被告人の訴訟能力について,当審で改めて鑑定人による鑑定をした結果,その結論は,基本的には原審鑑定人の鑑定内容と同一である(中略)。
前記認定事実を前提に検討するに,本件は,関係者も多い欺罔的方法による恐喝という複雑な恐喝事案であり,被告人が原判決をその場で聞いてこれを理解することは著しく困難であり,後日原判決書を読んで検討し,前記各点に触れた控訴趣意書を自ら作成して控訴審に提出することも著しく困難であるし,(中略)控訴審において面前でなされる審理を理解することも,被告人質問で応答することも著しく困難である。そうすると,被告人の原審及び上訴審を通じた訴訟能力には重大な疑問があるといわざるをえない。
ところで,被告人は,原判決の理解については,法廷で判決書を朗読されてもその場で判決の大意さえ理解することは著しく困難であるが,精神医学と神経心理学の領域で適切な知識と経験のある専門家の協力の下に主文及び理由の要旨を理解させる措置を取れば,ある程度理解できる能力があったのであるから,証拠調べ,論告及び弁論,最終意見陳述を終え,有罪の心証を固めた第一審裁判所とすれば,その段階で第一審として可能な訴訟手続をするため,被告人に対し有罪判決を宣告し,上訴権の告知をすることができなかったとまではいえない。しかしながら,その場合には,被告人は右の能力に照らし刑訴法176条の「耳の聞こえない者又は口のきけない者」に該当するというべきであるから,その能力に応じて精神医学と神経心理学の領域で適切な知識と経験のある専門家を通訳人として選任し,その専門家の協力を得て,判決宣告,上訴権の告知を含む訴訟手続を進めるべきである。しかるに,原審は,原判決を宣告するにあたり右のような専門家の協力を得なかったばかりか,原審において指定した鑑定人の鑑定書及び証言を参考に適切な伝達方法,例えば,原判決書の主文及び理由を予め短い文で記載し,裁判長がこれを朗読するとか,裁判長が原判決書をかみ砕いて説明するなどの方法により,原判決の趣旨を理解させるべき措置を取っていない。なお,原審は,原判決書の(争点に対する判断)部分の写しを参考に原審弁護人に交付しているが,弁護人に対する参考資料として交付したものであり,弁護人を介して被告人に交付しその理解力を高める一助としたものではないから,理解させるべき措置をしたことにはならない。(中略)これらによれば,原審の判決宣告方法は,右法条に違反することは明らかである。そうすると,原判決の判決宣告手続には重大な違法があり,その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである。